ウェグナーがデザインした「ママベアチェア」の背景とデザイン哲学
ママベアチェアとは、ハンス・J・ウェグナーが1950年代にデザインしたイージーチェアシリーズの一部で、その名の通り「母グマ」のように、座る人を優しく包み込むような造形が特徴の椅子です。一般的には、より広く知られている「パパベアチェア(AP19)」の対をなす存在として、控えめで親しみやすく、より柔和な印象を持つモデル群とされています。ママベアチェアの最大の魅力は、その造形の美しさと、人間工学に基づいた快適性の融合にあります。丸みを帯びた背もたれやふくよかなアームは、視覚的な温かみだけでなく、身体全体をしっかりと支える構造的な合理性も備えています。ウェグナーは、「たゆまぬ純化と簡素化」の哲学を通じて、使う人に心地よい静けさと安心感をもたらす家具を生み出しましたが、ママベアチェアはまさにその具現化ともいえる存在です。
このシリーズには、張りぐるみのアームチェアであるAP27や、特徴的なウィングバックを持つAP28、そして現代に復刻されたCH78など、形状や仕様に応じた複数のモデルが存在します。いずれも、単なる装飾品ではなく、長く付き合える生活道具としての価値を備えており、ウェグナーのデザイン哲学とクラフトマンシップが高次元で結びついた傑作と評価されています。ハンス・J・ウェグナーの椅子デザインにおける特徴は、「4本の脚、1つの座面、背もたれと肘掛けの組み合わせ」という最も本質的な構成要素に集約されます。彼はその中で人間工学的快適性と造形美を両立させ、愛らしさと機能性を兼ね備えた椅子を数多く生み出しました。「ママベアチェア」という愛称は、これらの椅子の包容力あるフォルムに由来し、ベアチェア(AP19)やミニベアチェア(AP20)とともに広く親しまれています。

AP27 | ヴィンテージ:ウィングバックのない初期モデル
AP27は1954年にデザインされたママベアチェアシリーズの初期モデルで、背もたれにウィングを持たないストレートなデザインが特徴です。無駄をそぎ落としたフォルムと、低く抑えられた座面高が特徴であり、「張りぐるみアーム」と「木製アーム」の2種類が存在します。素材にはオークやチーク材が使用されており、標準寸法は幅750mm、奥行き800mm、高さ1030mm、座面高400mm。AP-Stolen社により1950年代から1960年代に製造されましたが、同社の廃業により現在ではヴィンテージ品としてのみ流通しています。

AP28 | ヴィンテージ:ウィングバック型で希少性の高いモデル
AP28は、AP27のウィングバックバージョンとして同年1954年にデザインされ、背もたれの両サイドに「翼」のような曲線を持つ構造が特徴です。AP27と同様に「熊の手」のような木製アームが象徴的で、モデルによっては爪のデザインにバリエーションが見られます。サイズは幅860mm、奥行き800mm、高さ1080mmと、AP27よりも大きく、包容力のあるフォルムが特徴です。AP27にくらべて流通量が少なく、希少な作品です。

CH78 | 現行品:現代に復刻されたママベアチェア(2020年ー現在)
CH78は、1954年にデザインされたラウンジチェアで、「ママベア」の愛称を持ちつつも2020年にカール・ハンセン&サンによって復刻され、現行品として安定供給されています。軽快で優雅なフォルムと人間工学に基づいた快適な座り心地が特徴で、オプションとしてネックピローの有無も選択可能です。FSC認証のオークやウォルナット材が使用され、張地にはKvadrat社のファブリックやレザーが選べます。内部構造や座り心地はAP28と大きく異なります。
ヴィンテージ品と現行品の比較 | AP-Stolen製とCARL HANSEN & SØN製との違いと見分け方

オリジナル性と復刻
AP-Stolen | ハンス・J・ウェグナーが1950年代にデザインした「ママベアチェア」シリーズの中でも、AP-Stolen社によって製造されたオリジナルモデル(AP28)は、ヴィンテージ市場で高い評価を受けています。AP-Stolenはウェグナーの張りぐるみチェアを多く手がけたメーカーで、張りぐるみ技術に特化し、張り職人の手により丹念に仕上げられたそのチェアは、現在ヴィンテージ市場において極めて高い希少性と価値を持ちます。APストーレン製はほとんど刻印が入っていません。
CARL HANSEN & SØN | Carl Hansen & Sønが2020年に復刻したCH78は、当時のデザイン図面とプロトタイプに基づいて再現されており、現代的な素材や簡素化した製造工程を取り入れつつも、ウェグナーの哲学を忠実に継承しています。カールハンセン&サンのプレートが付属します。
内部構造と座り心地
AP-Stolen | AP-Stolen製のAP28は、当時主流であった馬毛や綿などの天然素材を組み合わせており、重厚かつしなやかな座り心地を実現していました。また腰部分には空洞になっており、麻のテーピングがあります。これにより身体を支えるためのしっかりとした弾力と、包み込まれるような柔らかさが共存しています。
CARL HANSEN & SØN | CH78はウレタンフォームを使用し、簡略化した構造となっています。快適性の指向性が異なり、ヴィンテージ品は「沈み込むような贅沢な座り心地」、復刻品は「均一でやや硬めのサポート感」が特徴です。
サイズ・ディテール・素材
AP-Stolen | W860×D800×H1080mm
素材にはオークやチークなどが用いられ、アーム部分に特徴的な「熊の手」の意匠が見られます。生地はざっくりとしたウールやコットンが主流で、張りぐるみの技法により、ボリューム感と柔らかさが強調されています。
CARL HANSEN & SØN | W840×D800×H1060mm
アームや脚にはFSC認証を受けた無垢のオークまたはウォルナット材が使用され、張地はKvadrat社の高性能ファブリックまたはレザーから選択可能です。ディテールは洗練されており、端部の縫製や脚部の接合部などは現代の技術で精密に仕上げられています。
価格と市場価値
AP-Stolen | 約150万円~200万円(2025年6月現在)
ヴィンテージのAP28は非常に希少で、状態や素材、来歴により価格は大きく変動します。年々その価値は高まっています。
CARL HANSEN & SØN | 713,900~722,700円(2025年6月現在)
CH78はヴィンテージに比べ、その価格が魅力の一つです。カラーや素材を自由に選べるカスタマイズ性が魅力です。受注生産であるため納期はかかりますが、新品としての保証とアフターサポートがある点は大きな利点です。
個性と哲学を映す一脚を選ぶということ
三つの「ママベアチェア」は、いずれもハンス・J・ウェグナーの不変のデザイン哲学を体現した傑作であり、それぞれの椅子が持つ背景、造形、素材、そして価値は、選ぶ人の美意識や生活哲学を映し出す鏡とも言えます。ヴィンテージとして希少価値を持つAP27とAP28は、時間が刻んだ深みとともに、椅子そのものが物語を語る存在です。一方で、CH78は現代の生活に寄り添いながらも、ウェグナーの魂を忠実に継承した「再解釈された名作」としての存在感を放っています。
選択とは、単に家具を購入するという行為に留まらず、自身の価値観や暮らしの質をどう高めるかという問いへの応答でもあります。ママベアチェアの各モデルは、その問いに対する異なる答えを提示してくれる存在です。それゆえに、この椅子を選ぶということは、単なる機能性やインテリアの一部としてではなく、「共に生きる時間の質」を選ぶことに等しいのです。これらの椅子は、単なる家具ではなく、20世紀デンマークデザインの精神と職人の技術が融合した文化的資産であるといえるでしょう。