ニューパパベアチェア | ハンス・J・ウェグナーによるAP19とAP69の違いとは?

 

「まるで大きなクマが後ろから抱きしめてくれているようだ」——。そんな詩的な表現から名付けられた「パパベアチェア」は、北欧家具の黄金時代を象徴するラウンジチェアのひとつです。デザインしたのは、デンマークを代表する家具デザイナー、ハンス・J・ウェグナー。彼は生涯で500脚以上の椅子を生み出し、その多くが今も世界中で愛され続けています。

1951年に発表されたパパベアチェアは、彫刻的でありながら実用的なフォルム、そして人間工学に基づいた快適な座り心地によって、瞬く間に名作としての地位を確立しました。その親しみある愛称は、アームレストの形状が「熊の手のようだ」と表現されたことに由来し、製造元であるAP-Stolen社もこの呼び名を気に入って採用したといいます。この椅子には、2つの象徴的なモデルが存在します。ひとつはオリジナルであるAP19。もうひとつは、その17年後にウェグナー自身が再設計を加えたAP69、いわゆる「ニューパパベアチェア」です。

いずれも「パパベアチェア」の名を冠しながら、そのフォルム、構造、素材、思想には明確な違いがあります。とくにAP69は、限定的な生産数と知名度の低さから、これまであまり語られることのなかったモデルですが、近年では再評価の動きも出てきています。

 


パパベアチェア AP19:伝統と職人技が生んだ傑作

1951年にハンス・J・ウェグナーによってデザインされたAP19、通称「パパベアチェア」は、デンマーク家具の中でも特に象徴的な存在として知られています。製造は、ウェグナーと長年協業していた家具メーカー「AP-Stolen(エーピーストーレン)」が担当しました。発表当時から高く評価され、北欧デザインの代表作として世界中で知られるようになります。その最大の魅力は、圧倒的なまでに丁寧な作りと、素材へのこだわりにあります。クッションには馬毛、ヤシの繊維、綿、ジュート、リネンといった天然素材が使用され、背もたれ内部には、手縫いで仕立てられた金属製のスプリングが内蔵されています。スプリングはジュートベルトに結び付けられ、身体の動きにしなやかに追従するよう計算されて配置されています。

特徴的な背もたれには、12個の布張りボタンが整然と並び、視覚的なアクセントとなると同時に、張り地のテンションを均一に保つ役割を果たしています。また、アームレストの先端にある木部は、使用時に手が直接ファブリックに触れにくくなるよう配慮された、機能性と美観を兼ね備えたディテールです。この木部の形がまるで「大きな熊の爪」のように見えることから、「パパベア」という愛称が定着しました。構造的には、後脚がアームに自然につながるよう設計されたカンチレバー構造となっており、安定性と軽やかさを両立。全体のシルエットは彫刻的でありながら、過剰な装飾は一切なく、木と布だけで構成された純粋なフォルムが、ウェグナーらしい「美と機能の融合」を体現しています。1脚の製造には、熟練した職人による多くの工程と、2週間以上の時間が必要とされていました。それは、当時の大量生産とは一線を画すものであり、「家具は工業製品であると同時に工芸品でもある」というデンマークのモダンデザイン哲学を象徴しています。

AP19は、ただ座るための椅子ではありません。使う人の身体に寄り添い、空間に静かに存在感を与え、そして時を経るごとに風合いを深めていく、まさに「受け継がれる家具」です。北欧デザインの核心を体現したこの椅子は、今なお世界中のデザイン愛好家やコレクターにとって憧れの存在であり続けています。

 


ニューパパベアチェア AP69:時代に応じて再設計された進化形

 

1960年代後半、ハンス・J・ウェグナーは、自らの代表作であるパパベアチェアAP19を再設計するという決断を下しました。それは「完成された作品であっても、常に改善の余地がある」という彼の信念を体現する試みでした。こうして1968〜69年に誕生したのが、ニューパパベアチェアことAP69です。このモデルでは、ウェグナーのデザイン哲学がより明確なかたちで表現されています。まず構造的な特徴として、アームレストは従来よりも幅広で扁平なデザインに変更され、椅子全体の存在感が強調されました。これにより、よりどっしりとした安定感と、深く腰かけられる安心感が得られるようになっています。

また、背もたれの形状も一新され、AP19にあった12個のボタン留めは廃され、中央にくぼみを持たせた滑らかなラインが採用されました。これにより、見た目はすっきりとし、より現代的でモダンな印象を与えるようになっています。クッション素材も注目すべき点です。AP19では馬毛やヤシ繊維などの天然素材が使われていましたが、AP69では時代の流れを受けてウレタンフォームに切り替えられています。これにより、座り心地の均質化が実現され、製造効率も大きく向上しました。家具がアートであると同時に、実用品であることを意識した判断だったと言えるでしょう。

さらに、AP69の特徴的なサイズ感は、当時の市場、とくにアメリカにおけるライフスタイルの変化とも結びついています。広く、ゆったりとしたフォルムは、戦後のアメリカで求められた「大きく快適な家具」のニーズに応えるものであり、実際に1970年代にはアメリカ市場で好評を博しました。このように、AP69は単にAP19のバリエーションモデルではなく、デザイナー自身が自らの作品に手を加え、時代や市場、技術の変化に合わせて再構築した「進化形のパパベアチェア」です。

ウェグナーの「芸術性」と「実用性」、そして「探求心」と「柔軟性」が結実したこのモデルは、彼のデザイナーとしての成熟を象徴する存在でもあるのです。

 


AP69の評価について

 

AP69はウェグナー自身によって再設計されたモデルでありながら、長い間、オリジナルであるAP19と比べると、一般にはそれほど高く評価されてきませんでした。その理由のひとつは、家具の世界に根強く存在する「オリジナル=正統」という価値観にあります。1951年に発表されたAP19は、素材や造形、職人技の粋を集めたクラフト作品として高く評価され、その神格化されたイメージが後発モデルの存在感を相対的に薄めてしまう傾向があります。

また、AP19に使われていた馬毛やヤシ繊維といった天然素材に対し、AP69ではウレタン素材が用いられ、背もたれのボタンも廃されたことから、クラフト感や装飾性が抑えられた分、「無機質」「量産的」といった印象を与えることもあります。さらに、生産数が非常に限られていたこともあり、資料や流通量が少なく、デザイン史の中であまり語られてこなかったという背景もあります。

しかし近年では、その見え方が変わりつつあります。大きく幅広いアームと低めの座面によるゆったりとした座り心地は、現代のライフスタイルに非常によく合い、実用性の高いラウンジチェアとして再評価されています。加えて、AP69はただの派生モデルではなく、ウェグナー自身が時代や市場の変化に応じて、意図的に再構築した「進化形のパパベアチェア」です。オリジナルを見直し、より良いかたちを模索するという姿勢は、彼の「完成されたものでも、常に改良の余地がある」という哲学の真骨頂とも言えるでしょう。

知名度の低さや素材の違いから見落とされがちだったAP69ですが、今あらためてその設計意図や快適性、そして希少性に注目が集まっています。時代を超えて生き残るデザインとは何かを問い直すとき、このもうひとつのパパベアチェアが放つ静かな存在感は、決して見過ごすべきものではありません。

 


ふたつのパパベア、受け継がれる美と進化する機能

 

パパベアチェアは、ハンス・J・ウェグナーの椅子づくりにおける哲学と美学が、最も象徴的に表現された作品のひとつです。そしてこの椅子には、1951年に誕生したオリジナルモデル「AP19」と、1968〜69年に再設計された「AP69(ニューパパベア)」という、ふたつの重要な系譜があります。

AP19は、天然素材と伝統的な手仕事によって生み出された、北欧クラフトの精神を体現する存在です。その構造や素材、仕上げには、一切の妥協がありません。静かにたたずむその姿からは、職人技とデザイナーの誠実な視線が感じられ、まさに「家具以上の存在」と言えるでしょう。時を重ねて味わいを深める姿も、AP19の魅力のひとつです。一方、AP69は、ウェグナーが自らの成功作にあえて改良を加え、「より快適に」「より現代的に」進化させた再設計モデルです。アームの形状やサイズ感、クッション材の見直しなど、細部にわたって再構築されたこの椅子は、機能性と市場性を意識したウェグナーの実践的な側面をよく表しています。使いやすさと佇まいのバランスを現代的に再定義した姿は、当時のアメリカ市場でも高く評価されました。

ふたつのモデルは、形こそ似ていても、それぞれが異なる価値と文脈をもっています。どちらが優れているという単純な比較ではなく、それぞれがその時代のニーズや思想、そしてウェグナー自身の探求の過程を表現しているのです。伝統を継承し、手仕事の温もりを大切にしたAP19。変化を恐れず、よりよいかたちを模索し続けたAP69。そのどちらにも、ウェグナーが生涯かけて追い求めた「人間のための美しい椅子」という理念が息づいています。

 

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