オーフス市庁舎とニューボー市立図書館の家具 ― 若きウェグナーが学んだ建築との協働


建築家との出会いが生んだ転機

1930年代後半、ハンス・J・ウェグナーは芸術工芸学校で学ぶなかで、その卓越した才能をオルラ・モルガード・ニールセンに見出されました。ニールセンの紹介により、彼は当時オーフスで市庁舎を設計していた建築家アルネ・ヤコブセンとエリック・モーラーのもとで働く機会を得ます。
このとき、ウェグナーはまだ20代前半。学業を途中で離れていたものの、その手腕と感性を買われ、デンマーク建築界の中心へと歩みを進めました。


ニューボー市立図書館の家具設計(1939年)

最初に任されたのは、エリック・モーラーとフレミング・ラスンが設計したニューボー市立図書館の家具プロジェクトでした。1938年から1939年にかけて、ウェグナーは図書館のすべての家具設計を担い、公共空間にふさわしい合理性と温かみを併せ持つ家具を生み出しました。
芸術工芸学校で最後に手がけた仕事が、デンマークデザイン博物館での18世紀ウィンザーチェアの実測であったことから、スピンドル(紡錘形)を用いた椅子を図書館に採用するのは自然な流れでした。伝統的な構造の分析を通じて、ウェグナーは「人間と素材の関係をデザインで再構築する」というテーマを見出していきます。


オーフス市庁舎での経験(1940年)

1939年から1942年にかけて、ウェグナーはヤコブセンとモーラーのスタジオで、オーフス市庁舎の家具設計を担当しました。市議会会議場をはじめとする空間のために設計された家具群には、のちの彼の作品に通じる構造的な明快さと緊張感が見られます。
ウェグナー自身もこう振り返っています。
「私は市庁舎のすべての家具をデザインしました。もちろん、責任者のエリック・モーラーと意見を交わしましたが、私たちはごく少人数で緊密に協力しながら進めていました。」
建築家との密な対話のなかで、空間と家具が一体となるデザイン哲学──のちに“空間の中の家具”として結実する思想──が芽生えたのです。


プランモブラーとの出会いと独立への歩み

1941年頃、オーフス市庁舎の家具の一部を製造した家具メーカー Planmøbler(プランモブラー) が、ウェグナーの設計に注目しました。彼は同社のためにオフィス家具シリーズをデザインし、初めて工業的生産を意識した家具づくりに取り組みます。机やキャビネット、本棚などの寸法はすべて相互に整合し、モジュール化された合理的な構成がなされていました。
この体系的な寸法設計には、かつての師であるコーア・クリント(Kaare Klint)による「人間と道具の比例に基づく家具設計」の影響が色濃く見られます。ウェグナーはこの経験を通じて、自身が家具デザイナーとして独立していける確信を得たといわれています。


新たな出会いとデンマーク家具史の幕開け

同時期、ウェグナーはスタジオの秘書であったインガ・ヘルボーと出会い、1940年に結婚しました。私生活の安定とともに、彼のキャリアも大きく動き出します。
モルガード・ニールセンは、名匠ヨハネス・ハンセンにウェグナーを紹介。1941年のキャビネットメーカーズ・ギルド展で、両者による初の共同作品が発表されました。ここから、26年間に及ぶウェグナーとハンセンの黄金期が始まります。
この時期の作品には、オーフス市庁舎のアーム構造やプランモブラーで試みたクロスフレームの要素が取り入れられ、素材の軽量化と構造の明快さが融合しました。こうした設計は、後のウェグナー作品を象徴する「浮遊する座面」の思想へと発展していきます。


構造の誠実さと建築的思考

ウェグナーの初期作品を貫くのは、構造を隠さずに見せる“誠実なデザイン”です。
支えるものと支えられるものが明確に可視化された椅子の構成は、建築における「構造の透明性」と同義でした。彼にとって家具とは単なる生活道具ではなく、小さな建築であり、構造美を内包する存在でした。オーフスでの数年間は、家具が建築とどのように呼応し得るかを体得した、決定的な時期だったのです。


(展示情報)

織田コレクション ハンス・ウェグナー展 ─ 至高のクラフツマンシップ
会期:2025年12月2日(火)〜2026年1月18日(日)
会場:渋谷ヒカリエ9F ヒカリエホール
公式サイト:bunkamura


関連記事:
Hans J. Wegner | デンマークを代表する家具デザイナー
Arne Jacobsen | 建築と家具を統合したモダニズムの巨匠
Planmøbler | ウェグナーの初期作品を支えた工房
オーフス市庁舎 | ハンス・J・ウェグナーの家具デザイン

PAGE TOP