1950年代、国際舞台へ広がったウェグナー
1950年代のハンス・J・ウェグナーは、デンマークの名工という枠を超え、国際的に注目されるデザイナーへと歩みを進めました。1951年にはフィンランドのガラス作家タピオ・ヴィルッカラとともに、ルニング賞の最初の受賞者となります。ルニング賞はアメリカでデンマークデザインを広めた実業家フレデリック・ルニングが設立したもので、当時としては非常に名誉ある賞でした。受賞により「3ヶ月の研究旅行」が与えられましたが、ウェグナーは1947年と1950年に生まれた娘たちの成長を待つため、1953年に延期してアメリカを訪れました。アメリカでは著名なデザイナーや工場を視察し、自身の家具が高く評価されていることを実感します。また、アメリカ企業からは「あなたの家具は、品質を保ったままアメリカでより早く、より安く生産できる」との提案も受けましたが、ウェグナーは海外生産によるシリーズ化を断り、デンマークの職人技を守る姿勢を貫きました。それでも交流自体は広がり、1950〜60年代を通してウェグナーの名前は世界で知られるようになっていきました。
アメリカが魅了された有機的なフォルム
1949年のギルド展がアメリカの雑誌に掲載されると、アメリカの複数のデザイン会社から「どこで購入できるのか」という問い合わせが届きました。その中には、流線型デザインの代表格として知られるレイモンド・ローウィのスタジオも含まれていました。戦後のアメリカではオーガニック・モダニズムが広がり、曲線を用いた自然で柔らかなデザインが人気を集めていました。ウェグナーやフィン・ユールの家具が持つ、木材の温かみと有機的なラインはまさにこの潮流と合致していたため、強い支持を得ることになりました。初期のヨーロッパ・モダニズムが直線的で厳格な造形を重視していたのに対し、戦後のアメリカではより自由で動きのある造形が求められるようになりました。ウェグナーは抽象芸術に特別傾倒していたわけではありませんが、1953年の航海中に出会ったアメリカの芸術家やデザイナーたちから影響を受け、その時代の空気を自然と吸収していきました。オックスチェアのたくましい曲線がヘンリー・ムーアの彫刻を思わせるのは、そうした背景も関係しています。
公共空間でも存在感を放ったデザイン
1950年代のウェグナーは、家庭用家具だけでなく、公共空間でも評価を高めていきました。1958年、コペンハーゲン空港のトランジットホールにスチールパイプ製の軽量チェアが採用され、無機的な素材にも果敢に挑む姿勢を示しています。また1954年のギルド展では、ラウンドチェアを基点としたデスクや、後にゲタマ社で普及したシガーチェアの原型となるイージーチェアを展示しました。さらに収納家具では、Ry Møblerの壁面シェルフシステム「RY100」が大きな成功を収め、ウェグナーのデザインが家庭、オフィス、公共空間に広く浸透していったことを物語っています。
有機的ラインの原点にあったもの
ウェグナーの有機的なラインは、抽象芸術よりも、もっと身近な“道具”に由来していました。子どもの頃から木彫りを楽しんでいた彼は、斧、槍、オール、プロペラといった「機能が形を決める道具」に強い魅力を感じていました。それらの形は合理的で無駄がなく、同時に美しいカーブを描いています。ウェグナーはそうした道具の形を深く理解し、それを家具に転用することで、構造的でありながら自然なラインを持つ独自のデザインを生み出しました。1938年のギルド展に出展した最初の椅子からすでに、力強く動きのある造形が見られるのはそのためです。こうした背景をもとに、ウェグナーの椅子は国際的モダニズムの流れと響き合いながらも、常に彼自身の“身体感覚”に基づいた確かな造形で成り立っていました。
(展示情報)
織田コレクション ハンス・ウェグナー展 ─ 至高のクラフツマンシップ
会期:2025年12月2日(火)〜2026年1月18日(日)
会場:渋谷ヒカリエ9F ヒカリエホール
公式サイト:bunkamura
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