デザイナーとしての出発点
1938年、ハンス・J・ウェグナー(Hans J. Wegner)はわずか24歳にして、コペンハーゲンの家具職人組合展(Copenhagen Cabinetmakers’ Guild Exhibition)でデザイナーとして正式にデビューしました。この展覧会で彼が手掛けたのが、家具職人オヴェ・ランダー(Ove Lander)のために設計した一脚──後に「ファーストチェア(First Chair)」と呼ばれる作品です。
この椅子は、天然のオークやマホガニーを用い、流れるようなアームラインと可視化された構造を備えていました。背からアームにかけての柔らかな曲線は、素材の性質を尊重しながら、手の動きや身体の感覚に呼応するように造形されています。のちの代表作「ザ・チェア」や「ウィッシュボーンチェア」にも通じる造形的原点が、この椅子の中にすでに息づいていました。
展覧会での評価と「幻の椅子」と呼ばれる理由
このファーストチェアは展示当時、審査員や批評家から高い評価を得ました。しかし、一般販売は行われず、あくまで展覧会のための試作作品にとどまりました。製作を担当したオヴェ・ランダーは、展示用に制作した数脚のうちの一脚を娘の結婚祝いとして贈ったと伝えられています。その後も市場には出回ることがなく、「幻の椅子」として語り継がれるようになりました。
商業的成功を目的とした製品ではなく、若きデザイナーと熟練職人が理想を形にするために挑戦した、いわば純粋な“実験作品”。そこには、1930年代のデンマークモダニズムが持っていた「実験と教育の文化」、つまり展覧会が新しいデザイン思想を発表する場であった当時の精神が反映されています。
構造を「見せる」デザイン思想の始まり
ファーストチェアで最も注目すべき点は、構造そのものをデザインとして提示した点にあります。
接合部や補強材を隠すのではなく、むしろ見せることで、木の強度や張力をそのまま美として表現しました。脚を貫くストレッチャーや、外側に流れるアームのラインは、構造の合理性と職人技の融合を象徴しています。
この考え方は、後にウェグナーが確立する「有機的機能主義(Organic Functionality)」の出発点といえます。つまり、形態は常に構造と機能に根ざし、人間の身体との関係によって自然に導かれるべきだという思想です。若きウェグナーは、すでにこの段階で「構造の誠実さ」というテーマを見出していたのです。
教育と影響──コーア・クリントと中国椅子の記憶
当時、ウェグナーは王立デンマーク芸術アカデミー建築学部の家具学校で学び、コーア・クリント(Kaare Klint)の理念を継ぐ教育を受けていました。デンマークデザイン博物館(Designmuseum Danmark、旧称 Danish Museum of Art & Design)を拠点に、古典家具の実測研究と機能分析を通じて、「歴史を基礎にした合理的デザイン」を学んでいたのです。
また1937年、同館が収蔵した1800年頃の中国椅子(Chinese Chair)は、ウェグナーの造形思想に決定的な影響を与えました。釘や接着剤を使わずに木材を組み上げる構造、外側に反り返ったトップレールの美しい曲線。これらの要素は、ファーストチェアのアームや背のライン、さらには後年の「チャイニーズチェア」や「ザ・チェア」にまでつながっていきます。
復刻展示の意義──デンマークデザインの源流を再発見する
今回の展覧会では、この幻の椅子「ファーストチェア」が実物大で再現されています。
現存資料が限られるなか、わずかなスケッチと写真をもとに、当時の設計思想を忠実に復元するプロジェクトが進められました。これは単なる復刻ではなく、デンマークモダンデザインの源流を現代に蘇らせる試みとして高く評価されています。
この再現は、若きウェグナーの創造の原点を再確認する行為であり、「なぜウェグナーがデンマーク家具をここまで高みに導けたのか」という問いに対する、ひとつの答えでもあります。
原点を知ることで、未来が見える
ハンス・J・ウェグナーのファーストチェアは、完成された名作ではなく、むしろ“始まりの象徴”です。
そこには、素材と向き合う真摯な姿勢、構造を隠さない誠実さ、そして美と機能を一体化させようとする意志が宿っています。
今回の復刻展示は、過去を懐かしむためではなく、「デザインとは何か」を改めて問い直す場です。
木と対話するように形を探り続けた若き日のウェグナー。その探究心とクラフトへの敬意が、この一脚の椅子を通して、今なお鮮やかに私たちに語りかけています。
(展示情報)
織田コレクション ハンス・ウェグナー展 ─ 至高のクラフツマンシップ
会期:2025年12月2日(火)〜2026年1月18日(日)
会場:渋谷ヒカリエ9F ヒカリエホール
公式サイト:bunkamura
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