カール・ハンセン&サンは、1908年にフュン島オーデンセで創業して以来、100年以上にわたりデンマークモダンを支え続けてきた家具工房です。創業者カール・ハンセンは、ヴィクトリア様式の重厚な注文家具を手作業で製作しながら、品質とクラフトマンシップを基盤とする企業のDNAを築きました。1915年には工場を設立し、伝統的な手仕事と近代的なシリーズ生産の融合という独自のモデルを確立します。これは、後の大量生産と品質保持を両立させる生産哲学の萌芽となりました。
1934年、大恐慌の影響で家具需要が冷え込む中、次男ホルガー・ハンセンが事業を継承します。彼は現実主義的な経営判断によりシンガー社のミシンケース製造を請け負い、倒産の危機を回避しました。この経験は、後に複雑なデザインを安定的に生産するための生産体制を支える土台となり、戦後の飛躍への準備となりました。
転機は1949年、ホルガーがハンス・J・ウェグナーと出会ったことです。この協働から誕生したCH22、CH23、CH24(Yチェア)、CH25などの初期の傑作群は、機能性と芸術性を統合したデンマークモダンの象徴となりました。特にYチェアは世界的なアイコンとなり、いまなお職人による100以上の工程を経て製作され続けています。ウェグナーとの関係は単なる協業を超え、生涯にわたるパートナーシップへと発展しました。
同社はウェグナー作品を中心に据えつつも、コーア・クリント、オーレ・ヴァンシャー、ボーエ・モーエンセン、モーエンス・コッホら巨匠の名作も製造・復刻し、デンマークモダンの進化の物語を製品そのもので語っています。さらに、日本の建築家安藤忠雄との「ドリームチェア」開発など、現代の巨匠との対話も積極的に行っています。
素材への敬意と手仕事への信頼は、同社のものづくりの核心です。オークやウォールナットなど厳選された木材を用い、ソープ仕上げやオイル仕上げによって経年変化を受け入れる哲学を体現しています。また、ペーパーコードの座面は熟練の職人が手で編み上げ、長寿命と修理可能性を前提とした設計は、持続可能性の実践そのものです。
現在、創業者の孫クヌッド・エリック・ハンセンのもとで国際ブランドへと発展し、日本市場でも表参道や大阪に旗艦店を構えています。フュン島での生産を守りながら、次世代の職人を育成する見習い工制度を通じ、クラフトマンシップを未来へと継承しています。カール・ハンセン&サンは単なる家具メーカーではなく、文化的なキュレーターとしてデンマークモダンを世界に紹介し続ける存在です。
About
Year:1908–現在
President:Carl Hansen(カール・ハンセン)-Holger Hansen(ホルガー・ハンセン)ーJul Nygaard(ユール・ニューゴード)/ Ella Hansem(エラ・ハンセン)ーJorgen Geana Hansen(ヨルゲン・ゲアナ・ハンセン) ーKund Erik Hansen(クヌッド・エリック・ハンセン)
Designer:Hans J. Wegner(ハンス・ウェグナー)、Kaare Klint(コーア・クリント)、Ole Wanscher(オーレ・ヴァンシャー)、Børge Mogensen(ボーエ・モーエンセン)、Mogens Koch(モーエンス・コッホ)、Tadao Ando(安藤忠雄)
Place:Odense(オーデンセ)
History
1908
カール・ハンセンによりオーデンセで創業する。
1914
第一次世界大戦の特需により、工房が軌道に乗り機械を導入し新しい工場を設立。量産家具の生産に踏み切り、現在のような分業化を進める。注文家具の製造はやめて、寝室家具の製作に専念する。
1924
Dansk mobelfabrikers Salfsudstilling(デンマーク家具メーカー展示販売会)に出展。これは家具メーカーが販売店や職人に質の高さを見せる展示会であった。Andreas Tuck(アンドレアス・ツック)との協力関係が始まる。
1927
Fredericias Kobestaevne(フレデリシア見本市)に出展。1927年は機械生産ではなく手作業が重視されたコペンハーゲン家具職人ギルド展が始まった年でもある。フレデリシア見本市は「機械を使用することで一般の人々が購入することができる良質な量産家具を生産する」という野心を実現できる展示会であった。
1934
世界恐慌の影響で景気が悪化。カールが心臓発作で倒れたこともあり、次男のホルガーが経営に加わる。スウェーデンへの輸出やミシンケースの大量受注により業績を復活する。
1939
第二次世界大戦が勃発。家具業界ではドイツ用の安物家具の需要が高まるが、質の高い家具を求めFrits Henningsen(フリッツ・へニングセン)にデザインの提供を求める。1940年初頭に生産が開始されたCH18は定番商品となり、2003年まで生産がされた。
1943
ホルガーが共同経営者となり、社名が「Carl Hansen & Son(カール・ハンセン&サン)」となる。
1945
戦中にドイツ向けの家具を生産しなかったことで終戦後にデンマーク政府から学校を始めとする公共プロジェクトの依頼が殺到する。多くの受注の中、カールハンセンが優位に立っていたのは安価なコントラクト用の製造ではなく、質の高い家具であることを再認識する。
1946
家具販売店にコンタクトをとる会員誌「モーベルハンラー」に広告の掲載をはじめる。アンドレアス・タックとともにフリッツへニングセンを介して知り合ったEjvind Kold Christensen(アイヴィン・コル・クリステンセン)を営業として雇用する。
1948
ホルガーがデンマーク家具メーカー商工会の会員誌「Mobelfabrikanten(モーベルファブリカンテン)」に輸出されたデンマーク家具の品質の低さを批判する記事を投稿する。これはFritz Hansen(フリッツハンセン)、FDB(エフディービー)、Soborg Mobler(スボーモブラー)により組織されたPortex(ポーテックス)に対する批判でもあった。
1949
Hans J,Wegner(ハンス・ウェグナー)と出会い、「デザインと品質から消費者が選ぶ、リーズナブルな価格帯の家具」を目指すことになる。このプロジェクトにはアンドレアス・タックも加わった。ウェグナーは4点のテーブルをアンドレアス・タックにデザインし、カールハンセンにチェアを4点(CH22・CH23・CH25・CH27)とサイドボード(CH304)を1点デザインした。デザインした家具が量産化されたことは、ウェグナーにとって商業的な成功を収めることになった。
これまでの営業方法も転換した。今までは家具販売店が営業先であったが消費者に直接営業広告をする手法を取り入れ、一般消費者に向けた宣伝に大きな予算が組まれた。結果としては大成功を収めるが、当時としては斬新な手法で業界団体に背を向ける行為であった。
1950
アメリカのインテリア誌「Interiors Magazine(インテリアーズ・マガジン)」がウェグナーのザチェアを掲載したことで、ウェグナーデザインがアメリカの家具販売店に広く知られることになる。さらにウェグナーがFrederik Lunning-peisen(フレデリック・ルニング賞)を受賞することにより注文が殺到する。
1951
RY mobler(ロユ・モブラー)、AP Stolen(APストーレン)、GETAMA(ゲタマ)もウェグナーのデザインする量産家具の生産に着手し、Salesco(サレスコ)として共同の営業活動を行う。それぞれのメーカーはサイドボードやソファなど得意分野が分かれていた。これによりインテリアに統一感をもたらすことができ、相乗効果を発揮することができた。この年ミラノ・トリエンナーレでCH24が受賞し、ウェグナーの人気がさらに高まる。
1955
コル・クリステンセンがポールケアホルムのデザインした家具を販売するためにEKCを立ち上げ、サレスコとの契約を解約する。Poul Norreklit(ポール・ノアクリット)を新しいエージェントとして雇用する。
1958
50周年を迎える。従業員は70名以上にもなり、デンマークでも有数の大家具メーカーとなった。サレスコがケルン家具見本市に出展する。
1959
創業者のカールハンセンが死去する。ホルガーは家具メーカー商工会の会長とデンマーク家具メーカー品質管理の会長に就任する。
1961
売れる見込みのないCH34・CH35用にチーク材を大量に輸入したことで経済的に苦しくなる。ホルガーが心臓発作で死去する。
1962
妻のエラ・ハンセンが会社は続けていくことを選択し、株式会社化する。自身は取締役に就任し、社長に経理担当だったJul Nygaard(ユール・ニューゴード)を就任させる。ニューゴードの経費削減による財政改善により、ホルガーを失いながらも黒字化を果たす。
1966
ケルン家具見本市でフィンランドやイタリアのデザインが注目され、デンマーク家具が時代遅れのものとなっていく。
1968
サレスコの家具の独占販売権を持ったアメリカ企業であるジョージ・ジェンセンIncがニューヨークに多額の資金を投じてショールームを新設するも、わずか三か月で継続が困難となる。ニューヨークの高額な人件費や家賃を支払うため、デンマーク国内価格の3~4倍の価格設定をしたためともいわれてい。この出来事はデンマーク家具の人気の衰えを感じさせるとともにアメリカでの販売流通経路を失ってしまう。
ゲタマがサレスコから脱退し、サレスコの規模が縮小する。ゲタマはサレスコの社長であったヨルゲン・ホイヤーを引き抜いてしまったため、フォス・ペーターセンが新たにサレスコの社長に就任する。フォスは「ウェグナーのやり方に口をだすな」とういう暗黙の了解を犯してしまい、ウェグナーとの協力関係がなくなってしまう。ウェグナーはすでに生産されていた家具の継続は許可したものの、新しいデザインが提供をされることはなくなってしまう。
1969
プラスチックやグラスファイバーを使用した斬新な家具に注目され、木材で製造される家具は時代に合わないという意識が高まっていった。生涯使用する家具でなく、使い捨ての家具が注目されたことも売り上げ低迷の原因となった。
1972
サレスコの不振によりアンドレアス・ツックが倒産する。テーブルメーカーの倒産はカールハンセンにとっても痛手であった。
1974
APストーレンが倒産することでサレスコは事実上閉鎖となった。新たにSoren Willadsen(ソーレンヴィラセン)がパートナーとなり、「CH-RY-SW 有限会社」として継続をしていった。
1988
ニューゴードが死去する。ホルガーの長男であるヨルゲン・ゲアナ・ハンセンが社長に就任する。
1991
日本に子会社「ディーサイン」を設立する。
1992
ウェグナーデザイン事務所との新しい関係がはじまる。
1996
ヨハネスハンセンの為にデザインを提供したスリーレッグドチェア(CH07)の生産を開始する。
2002
ホルガーの次男であるクヌッド・エリック・ハンセンが社長に就任する。生産性を伸ばすために多額の投資が行われ、オーデンセの工場からオーロップの工場へ移転が行われた。新しいNC機器が導入され、生産性は2002年時の約3倍となった。欧州、北米に販売エージェントのネットワークを作り売り上げを伸ばしていった。ウェグナーの古いデザインの復刻にも力を入れた。
2011
デンマーク最古の家具工房であるRud. Rasmussen(ルド・ラスムスセン)を買収する。
2012
PJ furniture(P.J ファニチャー)を買収する。
2014
Wegner生誕100周年を記念し復刻ロゴを採用
2015
日本市場への展開を強化し、大阪に旗艦店を設立
2020年代
持続可能性への投資を加速、FSC認証木材を全面導入
2024
東京・表参道に新旗艦店をオープン
Furniture
・CH22 Lounge Chair
・CH23 Dining Chair
・CH24 Wishbone Chair | Yチェア
・CH25 Lounge Chair
・CH26 Armchair
・CH29 Sawbuck Chair
・CH33 Chair
・CH07 Shell Chair | シェルチェア
・CH44 Armchair
・CH445 Wing Chair
・CH468 Oculus Chair
・KK47000 Safari Chair | サファリチェア
・OW149 Colonial Chair | コロニアルチェア
・OW150 Daybed
・BM1160 Hunting Table | ハンティングテーブル
・Deck Chair Series
・MK99200 Folding Chair | フォールディングチェア
・Bookcase System | ブックケースシステム
・TA001 Dream Chair | ドリームチェア
Imprint/Label






